アジアの交流・交易拠点として栄えた「壱岐の古代史」を巡ろう!-1

アジアの交流・交易拠点として栄えた「壱岐の古代史」を巡ろう!

古代から日本と朝鮮半島、中国大陸をつなぐ海のシルクロードの交流・交易拠点として栄えていた壱岐には、日本三大弥生遺跡の1つ「原の辻(はるのつじ)遺跡」をはじめ、長崎県にある古墳の約6割を占める280基以上もの古墳が小さな島の中に点在するなど、古代史ファンにはたまらない見どころがいっぱいです!2000年前に広がっていたであろう古代の原風景に思いを馳せながら、歴史のロマンに浸ってみましょう。

豊かな文明が花開いていた「壱岐の古代史」

四方を海に囲まれた壱岐は、古代から日本と朝鮮半島、中国大陸とを結ぶ海のシルクロードにおける交流・交易の拠点として栄え、3世紀に書かれた中国の歴史書『魏志倭人伝』にも「一支国(いきこく)」の名で登場しています。

島の東岸にある「内海湾(うちめわん)」には古代船が行き来し、そこから川をおよそ2キロ遡ったところに、弥生時代の一支国の王都「原の辻(はるのつじ)」がありました。原の辻には、中国や朝鮮から土器や鉄器が持ち込まれ、一支国の海産物や農産物と取引されるなど、人、モノ、文化が交わる場所として賑わい、また周辺の平野部には田畑が整備されて、豊かな農耕文化が花開いていたといわれています。

5世紀後半から6世紀頃には、日本本土のヤマト政権の成立に合わせて、壱岐でもヤマトの影響を受けた古墳が築かれるようになりました。ヤマト政権は当時、中国の王朝に積極的に使者を送り、朝鮮半島への勢力拡大を図っていたことから、壱岐の有力者たちはその間を友好的に取り持つような関係性にあったことが、古墳からの出土遺物により分かっています。

壱岐の歴史を楽しく学べる「一支国(いきこく)博物館」

建築界の巨匠・黒川紀章によって設計された、周囲の山並みに溶け込むような曲線を描いた建物が印象的な「一支国(いきこく)博物館」は、東アジアとの交流・交易の拠点として壱岐が歩んできた歴史をわかりやすく紹介している博物館です。

展示は壱岐が初めて歴史に登場する『魏志倭人伝』に記された57文字の「一支国」についてのくだりをひもときながら、続くビューシアターで弥生時代に栄えた一支国の王都・原の辻の姿を映像で再現していくところから始まります。

さらに、一支国博物館最大の見どころとなっているジオラマ展示では、「原の辻一支国王都復元公園」に復元されている建物や、出土した遺物が実際にどのように使われていたのかなどを160体の表情豊かな人形を使って紹介しています。ビューシアターの映像とこのジオラマ展示を見れば、弥生時代の人々の暮らしぶりや、一支国に花開いた当時の文明がどのようなものだったのかよく理解できるよう工夫されています。

その他にも、子どもたちが考古学や歴史に親しめるように解放されたキッズコーナーや、ガラス越しに収蔵庫や遺物の修復の様子を見ることができるオープン収蔵庫・遺物整理室があり、考古学ファンでなくとも日本人の祖先がどのように生きてきたか知ることができる心躍る空間が広がっています。

弥生時代の原風景が広がる「原の辻(はるのつじ)遺跡」

「原の辻(はるのつじ)遺跡」は、紀元前2世紀から約600年にわたって栄えた弥生時代の大規模な環濠集落遺跡です。島の南東部を流れる「幡鉾川(はたほこがわ)」流域に広がる長崎県で2番目に大きい平野「深江田原(ふかえたばる)」に位置し、その規模や出土品から3世紀に書かれた中国の歴史書『魏志倭人伝』に記されている「一支国(いきこく)」の王都であったことが特定されています。

原の辻遺跡では、これまでに100件以上の建物跡や環濠、日本最古の船着場跡などが確認されているほか、中国大陸や朝鮮半島との交流、交易が盛んだったことを示す渡来品が数10万点出土しています。物を入れて運ぶ運搬用の土器、農耕作業を効率化する鉄製農具、建材加工に用いられた鉄製工具や鉄製武器などの実用品をはじめ、祭祀で用いられる青銅製品や、威信具であるガラス製品などのほか、ムンクの「叫び」にも似た「人面石」など、大陸から伝来した最先端の技術を駆使して豊かな文明が築かれていたことを示す出土品が数多く発見されています。

発掘調査に基づいて往時の姿をできるだけ正確に復元している「原の辻一支国王都復元公園」では、丘陵部の最も高い位置に作られた祭儀場を中心にして、周囲に「王の館」などの居住域が広がっていた様子を再現しています。一支国博物館のジオラマ展示と合わせて見ると、弥生時代の原風景と当時の人々の暮らしぶりがよりリアルに蘇ってくるでしょう。

小さな島内に280基以上もある「壱岐の古墳群」

壱岐には長崎県全体の約6割にあたる280基以上もの古墳があり、そのうち6世紀後半から7世紀前半までに築造された「双六(そうろく)古墳」「笹塚(ささづか)古墳」「兵瀬(ひょうぜ)古墳」「鬼の窟(おにのいわや)古墳」「対馬塚(つしまづか)古墳」「掛木(かけぎ)古墳」の6基が「壱岐古墳群」として国の史跡に指定されています。

双六古墳は、全長91メートルを誇る長崎県下最大の前方後円墳です。石室に立ち入ることはできませんが、後円部の盛土部分は横長の大きな石材を4〜5段積み上げたドーム型天井になっていて、当時の技術の高さを知ることができます。また、双六古墳からは国内最古の中国北斉製二彩陶器のほか、朝鮮半島の新羅土器や古代エジプトを起源とするパルメット文様の金銅製飾金具など、中国大陸や朝鮮半島と深い親交があったことをうかがわせる遺物が出土しており、その質の高さからかなりの有力者が葬られていたのではと想像できます。
笹塚古墳は、直径約70メートルの基壇部の上に直径約40メートルの墳丘部がのった2段構造で、壱岐島内では3番目に大きい円墳です。漢字が伝わる以前に古代日本で使われていた「神代文字(じんだいもじ)」が石室に刻まれています。また、銅に金メッキを施した金銅製心葉形杏葉や辻金具のほか、国内唯一の出土例となる金銅製亀形飾金具が出土しています。その亀をモチーフにした形状は奈良県明日香村で出土した亀形石造物との類似性が見られ、中央政権と壱岐の有力者が何らかの繋がりを持っていたかもしれません。

兵瀬古墳、鬼の窟古墳、対馬塚古墳、掛木古墳といった他の4基の石室からも、中国大陸や朝鮮半島の国々との関わりを物語る遺物が発見されていることから、壱岐の古墳時代は、玄界灘に浮かぶ島国という地理的な特徴を最大限に活かし、東アジアの国々との活発な国際交流が行われていたことがわかっています。

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