元寇に立ち向かった壱岐のヒーローたち-1

元寇に立ち向かった壱岐のヒーローたち

鎌倉時代に、日本が外国から本格的な侵攻を受けた事件がありました。「元寇」です。
令和6年(2024年)には、文永の役 蒙古襲来から750年を迎えます。
歴史の教科書では、日本の武士たちが博多湾で懸命に戦い、最終的には神風が吹いて元軍が退散したといわれていますが、博多湾での攻防に先駆けて、壱岐では元軍との決死の戦いが繰り広げられていたことはあまり知られていません。島を守るため、国を守るため、果敢に戦った壱岐のヒーローたちの足跡をたどりながら、壱岐に伝わる元寇の物語に想いを寄せてみませんか。

なぜ、元は日本に攻めてきたのか?

13世紀に蒙古民族を統一し、東は中国から西はヨーロッパまで、広大なユーラシア大陸に大帝国を建設した元は、朝鮮半島の高麗を服属させたのち、海を隔てた日本にも臣下になれという内容の国書を持たせた使者を何度も送ってきました。しかし、時の執権・北条時宗を中心とする鎌倉幕府は、これらをことごとく無視し、その要求を拒みます。怒った元の皇帝・フビライは、日本に攻め込むための兵と食糧の供出、そして軍隊を運ぶ船の建造を高麗に対して命じ、文永11(1274)年に最初の出兵である「文永の役」が勃発しました。

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平安時代最大の対外危機「刀伊の入寇」とは

平安時代最大の対外危機「刀伊の入寇」とは

「元寇(文永・弘安の役)」の約250年も前に起きていた「刀伊の入寇」。
国境の島・壱岐では、「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」と呼ばれるその事件で甚大な被害を被りました。
令和6年の大河ドラマ「光る君へ」で描かれる平安時代中期は、藤原道長をはじめとする藤原氏が天皇の外戚として権勢を誇り、宮中では紫式部や清少納言といった女性文学者が活躍するなど、きらびやかな王朝文化が花開いた一方、異民族の侵攻による対外危機を迎えた時代でもありました。
当時、大宰権帥(だざいのごんのそち、現在でいう防衛庁長官)に就任していた戦う貴族・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)らが中心となって、九州本土への異民族の上陸を阻み、撃退に成功しました。

「平安時代最大の対外危機「刀伊の入寇」と、 戦う貴族・藤原隆家の活躍」特集記事はこちら

文永の役で元軍を迎え撃った平景隆

文永11(1274)年10月3日、高麗を出発した2万5千の元軍(蒙古軍・高麗軍)を乗せた900隻の船団は、10月5日に対馬を襲うと、14日には壱岐へと侵攻。夕方、島の北西部にある浦海(うろみ)、馬場先(ばばさき)、天ヶ原(あまがはら)の海岸から上陸しました。

文永の役で元軍を迎え撃ったのが、壱岐の守護代を務めていた平景隆(たいらのかげたか)です。景隆は居城である樋詰城(ひのつめじょう)からおよそ100騎の家臣を従えて出陣すると、庄の三郎ヶ城前の唐人原(とうじんばる)で元軍と激突。約400人の元軍と対峙した景隆らは多勢に無勢もあって退却を余儀なくされ、樋詰城まで引き揚げましたが、翌15日には早朝から元軍に取り囲まれて総攻撃を受け全滅しました。

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平景隆の墓(壱岐市教育委員会提供)

平景隆の最期

平景隆の居城であった樋詰城跡には、現在、景隆を祭神とする新城神社が鎮座し、本殿前には景隆の墓標が建っています。元軍から総攻撃を受けた際、景隆は娘の姫御前を呼び、家来の宗三郎をつけて大宰府へ元軍の壱岐襲来を伝えるように命じると、一族郎党とともに自害して果てたと伝えられています。

元寇「蒙古は神風吹く前に撤退決めた」~驚きの事実 日本の反撃に貢献した対馬、壱岐での前日譚~著述家: 真山智幸(東洋経済オンライン 外部リンク)

勝本町周辺に遺る文永の役の傷跡

壱岐に上陸した元軍は、武士だけでなく住民も見つけ次第殺しました。赤子は股から引き裂かれ、男性は耳や鼻を削ぎ落とし、もがき苦しむ様子を楽しんだ後に斬り殺されました。女性は掌に穴を開けられ、綱を通し引きずり回した後、軍船の船べりに結び付けて溺死させられるなど、殺りくの限りを尽したと伝えられています。

元軍が去った後の島には、死体が山のように積み重なり、生き残った人々は亡骸を集めて埋葬し、塚を作りました。塚はあまりに多くの遺体を埋めたことから「千人塚」と呼ばれ、文永の役で元軍が侵攻したといわれる勝本町新城には、その遺構が今も大切に保存されています。

元軍の戦い方に戸惑った日本の武士たち

壱岐を攻め落とした元軍は、文永11(1274)年10月19日、博多湾へ侵攻を始めました。すでに対馬と壱岐が陥落したことを知らされていた本土の御家人たちは、それぞれの陣地で守りについていましたが、元軍が上陸を始めると現在の福岡市赤坂付近で激戦が繰り広げられ、苦戦を強いられました。

苦戦した理由については諸説ありますが、果敢に一騎打ちを挑む日本の武士たちに対して、元軍はドラや太鼓を合図に集団で攻めかかる戦法であったこと。元軍が用いた短弓が、日本の弓矢のおよそ2倍の射程距離があり、その上その矢尻には毒が塗ってあったこと。“てつはう”と呼ばれる炸裂弾を使い、日本の武士たちが乗る馬を驚かせ士気を混乱させたことなどが挙げられています。

対する日本の武士たちも、大宰府守護(防衛軍司令官)の少弐景資(しょうにかげすけ)を中心に善戦します。元軍No.2の副司令官に重症を負わせたのが幸いしたのか、10月21日になると元軍は忽然と姿を消し、立ち去っていたのでした。その後、博多湾から引き揚げた元軍を暴風雨が襲い、船の大半は沈没したといわれています。

再来襲に備えて弱冠19歳の若武者が守護代に

文永の役の翌年、日本を属国化することを諦めない元の皇帝・フビライは、再び使者を遣わせますが、執権・北条時宗は毅然とした態度を示すべく、この使者を斬り捨ててしまいます。そして同時に、鎌倉幕府は2度目の侵攻に備えて、博多湾沿岸に石塁を築きました。

壱岐では、文永の役で大宰府守護を務めた少弐景資の甥っ子で、弱冠19歳の少弐資時(しょうにすけとき)が守護代に命じられ、瀬戸の船匿城(ふなかくしじょう)に入って元軍の襲来に備えます。少弐氏は代々、北九州の守護を司る大宰少弐(だざいのしょうに)という役職を仰せつかる名家で、資時も文永の役では、12歳で博多に上陸した元軍に向かって一番名のりをあげ、矢合わせをしたという勇敢な若武者です。船匿城は、その東側に自然の断崖絶壁を備えた要害で、入江になった部分には船を隠して待機させておくことができることからその名が付いたといわれています。

弘安の役では、瀬戸浦から元軍が侵攻

弘安4(1281)年、鎌倉幕府の対応に怒った元軍が侵攻を開始。2度目の侵攻は「弘安の役」と呼ばれていますが、今回はなんと軍船900隻に4万の兵を乗せた東路軍と、軍船3千500隻に10万の兵を乗せた江南軍の大軍を二手に分けての進軍でした。壱岐には東路軍が5月21日に瀬戸浦から上陸。瀬戸浦を見下ろす高台にあった船匿城に居城を構える少弐資時が元軍を迎え撃ち、奮戦しましたが4万の敵には刃が立たず、全身血だるまになって壮絶な最期を遂げたと伝えられています。

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少弐資時の墓(壱岐市教育委員会提供)

ショウニイ様と呼ばれた石積みの塚

瀬戸浦を見下ろす少弐公園の松林の中に、弘安の役で討ち死にした少弐資時の墓があります。ここは古くから壱岐の人々に「ショウニイ様」と呼ばれ、親しまれてきた石積みの塚でしたが、明治31年にここが資時の墓に違いないとして祀られました。資時はまた国を護る神様として壱岐神社にも祀られています。

少貳資時の墓

「ムゴイ」という言葉の語源になった!? 元軍の残虐性

船匿城が落ちると、元軍は島の人々にも襲いかかりました。その残虐性は、文永の役の際の暴虐にもまさるもので、死体の山が累々と積み重ねられたといいます。弘安の役の舞台となった壱岐東部・芦辺町周辺(瀬戸浦、箱崎など)には、犠牲者を葬った千人塚が今も残されています。

また、文永の役で主な戦場となった勝本町周辺や、弘安の役で主な戦場となった芦辺町周辺には、元軍に追われた人々が身を隠したといわれる「隠れ穴」があります。山へ逃れたけれど、子どもの泣き声で見つかってしまい皆殺しにされたり、怯えて泣き止まない子どもは肉親の手で殺されたとの記録もあります。

元寇の脅威は壱岐では何世代にも渡って語り継がれ、泣き止まない子どもに「ムクリコクリが来るぞ」と言って、いうことをきかせようとする習慣もありました。ムクリは蒙古兵、コクリは高麗兵を意味し、元軍のことを指すとされていますが、これが無慈悲で残酷なことを表す「ムゴイ」という言葉の語源になったともいわれています。

※語源については諸説あります

元の野望を打ち砕いたヒーローたち

壱岐に壊滅的な打撃を与えた元の東路軍は、その後、博多湾へ侵攻しましたが、沿岸には九州の御家人が中心になって築いた石塁があり、なかなか上陸することはできませんでした。これに対し、日本の武士たちは夜陰に紛れて小船で元の軍船に漕ぎ寄せて夜襲を仕掛けるなどして徹底抗戦し、元軍の侵攻を食い止めることに成功しました。

強行突破をあきらめた東路軍は、壱岐方面へと退却をはじめ、江南軍との合流を図りましたが、勢いに乗る日本の武士たちも船団を編成して追撃にかかります。6月29日から7月2日にかけて、壱岐の瀬戸浦では少弐資時の父である経資(つねすけ)を総大将にした日本軍が激戦を繰り広げ、元軍に大損害を与えます。

7月30日、東路軍単独での上陸をあきらめ、平戸島で江南軍と合流し、改めて博多へ攻め入ろうとしていた元軍の船を大型の台風が襲います。この嵐で元の大船団はほとんどが海の藻屑となって消えました。2度に渡った元の侵略戦争は、こうして撤退を余儀なくされましたが、この時、元の侵攻を許さなかったのは、神風と呼ばれた台風の影響だけではなく、島や国を守ろうと決死の覚悟で戦った人たちがいたからに他なりません。後世に生きる私たちは、その大きな犠牲の上に今の平和な暮らしが成り立っていることを改めて心に留めておきたいものです。

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「Ghost of Tsushima Director's Cut」にも登場する壱岐のシンボル・猿岩

元寇をテーマにした人気ゲーム「Ghost of Tsushima Director's Cut(ゴースト・オブ・ツシマ・ディレクターズ・カット)」に新ステージ「壱岐島」が登場!

「Ghost of Tsushima(ゴースト・オブ・ツシマ)」は、壱岐と同様、元寇の脅威にさらされた対馬を舞台に繰り広げられるアクションゲームです。2021年8月20日にリリースされた「Ghost of Tsushima Director's Cut(ゴースト・オブ・ツシマ・ディレクターズ・カット)」では、新ステージに「壱岐島」が登場! 元寇があった鎌倉時代の壱岐の雰囲気が、リアリティーたっぷりに再現されています。詳しい紹介記事はこちら(https://bunshun.jp/articles/-/48241)。ゲーム好きの方は、ぜひチェックしてみてください。

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