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一見の価値あり!ここがすごいぞ勝本城跡!

城山公園として、市民に親しまれる勝本城跡。勝本城の歴史と魅力にせまる。

豊臣秀吉の命を受け、朝鮮侵攻のためだけに築かれた中世の山城である勝本城。秀吉の死後破城され、現在は、城山公園(しろやまこうえん)として整備し、桜の名所としても親しまれています。また、公園内では当時の面影を残す石垣を見る事ができます。
本特集では、その残された石垣に隠されたとんでもない技術や、異例のスピードで築城を可能にした戦略、あの武将にまつわるエピソードなど、勝本城の歴史と知られざる魅力に迫ります!

まずはざっくり、勝本城ってどんな城?

今から約400年以上前、安土桃山時代に築かれた勝本城。豊臣秀吉が朝鮮侵攻の際の兵站基地となる城を築くことを命じ、わずか4か月という恐るべきスピードで完成させたと言われています。築城を指揮したのは壱岐島を統治していた平戸領の松浦鎮信(まつらしげのぶ)。築城のスピードもさることながら、その技巧は当時の最高峰ともいわれる技が採用されています。戦国時代屈指の名工であり、石垣造りのプロと言われた穴太衆(あのうしゅう)の技術が生かされた石垣は、長い年月が経った今も、大きく形をかえることなく当時の姿を残しています。
また、築城された経緯も含め、佐賀県の肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)、対馬の清水山城(しみずやまじょう)とともに、安土桃山時代を象徴する貴重な城跡事例として歴史的意義が高く、平成15年には国史跡に指定、平成27年には日本遺産の構成文化財に認定されています。
今は石垣のみとなった勝本城が、なぜそれほどまでに「歴史的価値が高い」と言われるのか。築城された理由は?どのようにして異例のスピードで築城されたのか?なぜ破城しなければならなかったのか?などを深く掘り下げていきましょう。

なぜ、勝本城は築城されたのか

織田信長の死後、清須会議を経て事実上の後継者となった秀吉は、圧倒的な軍事力をもって、九州の島津氏、小田原の北条氏といった有力大名を征伐し天下統一を進めていきます。天下統一後、信長の野望であり、秀吉が家臣の頃から呼応していた「大陸侵攻」を現実のものにしようと動きだしました。秀吉が目的としていた明国征服に際し、冊封国(中国王朝の従属国)であった李氏朝鮮に、日本への服属と明国への先導を要求したが拒んだため、まずは朝鮮を攻めることとなったのです。
1592年(文禄元年)重臣の小西行長(こにしゆきなが)を第一軍に、加藤清正(かとうきよまさ)を第二軍にと、そうそうたる武将を大将に据える部隊を構成。全国諸大名に出陣の拠点となる肥前名護屋城の築城を命じました。平戸領の松浦鎮信には勝本城の築城を命じ、朝鮮に向かう部隊の休息と物資の補給をスムーズに行うための兵站基地をつくりました。これが文禄の役の起こりと言われ、勝本城が築かれた理由です。

オールスター集結!築城に奮闘した武将たち

秀吉から、築城の命令を受けた松浦鎮信は島原領の有馬晴信(ありまはるのぶ)、大村領の大村善前(おおむらよしあき)、五島領の五島純玄(ごとうすみはる)の協力を得て、4カ月の月日で勝本城の基礎となる石垣を完成させました。本来、城は自らの領地に築城するものであり、他藩の築城に関わることはありません。しかし、天下人秀吉の命令で急を要するということもあり、松浦、有馬、大村、五島という長崎オールスターズの武将が集結し完成させたのです。
江戸時代の歴史書「壱岐名勝図誌」(いきめいしょうずし)には、武末城址(たけすえじょうあと)と記され、「豊臣秀吉公朝鮮征伐の時、はじめて是を築けり。城の中心部は、東西二十四間、南北四十七間であった」と残されています。
完成後は、秀吉の弟である秀長の家臣・本多俊政(ほんだとしまさ)が500人の手勢とともに1598年(慶長3年)までの7年間常駐。朝鮮で戦う部隊の食糧・軍馬・武器などの海上輸送をとりしきる兵站基地の責任者として、また、全島の治安を守る民生官として多忙な日々を送ったと思われます。

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名将加藤清正の残したもの

名将加藤清正の残したもの

第二軍のリーダーである加藤清正は聖母宮(しょうもぐう)の本殿に風が直接あたらないように風よけのための石垣を築きます。神宮皇后伝説のある聖母宮を大切に扱うことにより、戦いより無事戻ることができるよう願いをこめていたのでしょう。石垣の造営と時期を同じくして、加藤清正と鍋島直茂(なべしまなおしげ)は聖母宮の西と南に門を寄進しています。聖母宮を守ることが、自分達の勝利に繋がるという願掛けをすると同時に戦いへの恐怖心を打ち消し、気持ちを奮い立たせていたのかもしれません。

聖母宮についてはこちらから

いまだ分からぬ秀吉の御座所。勝本城に御座所は存在したのか…?

石垣の完成後、秀吉は明智光秀の娘ガラシャの夫である細川忠興(ほそかわただおき)と、浅井三姉妹お江の方(あざいさんしまいおごうのかた)の前夫である羽柴秀勝(はしばひでかつ)に対して、「御座所」の造営を命じました。御座所とは秀吉が駐宿する特別な建物のことを言います。御座所があった場所はいまだ不明のままですが、御座所ではなかったのではないかと思われる場所が1か所あります。そこは、城山の山頂部です。この山頂部からは遠く対馬を望むことができ、通る船を見渡すことができます。ここには建物の礎石(そせき)と思われる石が現在も数多く残っているのです。
また、「壱岐名勝図誌」の武末城本丸全図を見ると、物見台上には礎石の記述がなく、物見台より一段低い大きな平坦地に礎石の書き込みがあります。この礎石群は大きく3つのグループに分けられ、東から西へ57個、55個、44個と合計156個の礎石が記入されています。これは、大型の屋根をもつ三棟の建物が立ち並んでいたことを表しています。まさに、秀吉の御座所にふさわしい建物といえるのではないでしょうか。すでに全体が見渡せる物見台には建物を造る必要がなく、そのままの地形を利用することでその役割を果たしていたのかもしれません。
実際には、秀吉は朝鮮はおろか壱岐にも渡っていません。この事実から御座所造営は命令だけであって造られなかったのではないかとも考えられますが、秀吉が細川忠興に宛てて送った書状には、「精魂かたむけ早く造りあげよ」と命じているため、天下人秀吉の命令である以上、駐宿するための御座所を造っていたのではないかと思われます。
また、宣教師であるルイス・フロイスの著書「日本史」には、「秀吉が朝鮮に渡る際の二島(壱岐・対馬)にも自分の屋敷と宿舎及び大貯蔵庫の建築を命じた」とあります。中世において礎石を伴う建物は寺院か城郭であり、貯蔵庫や城番の屋敷であるとは思えません。このような史実も含め、やはり城山の山頂部には秀吉の御座所があった可能性が高いと思われます。

石垣造りプロ集団の匠の技!現代に残る石垣の秘密に迫る

戦国時代末期に活躍した石工集団、穴太衆(あのうしゅう)。織田信長の「比叡山の焼き討ち」後、再興の目を潰すため、信長は臣下の丹羽長秀(にわながひで)に焼け残った石垣の打ち壊しを命じました。しかし、延暦寺伽藍(えんりゃくじがらん)の石垣は、頑丈すぎてなかなか壊すことができませんでした。信長はその技術に感銘し「安土城」の築城に穴太衆を召し抱えたと言われています。
その後、信長の穴太衆起用を目にした大名達は築城に関して、穴太衆を求めるようになりました。織田~豊臣~徳川と時代の頂点を極めた権力者に守られながら全国に散らばり、その技術が各地の城の石垣に生かされていることが明らかになっています。信長の時代で有名なのは安土(あづち)城や朝来(あさご)の竹田城で、石を加工せずに積み上げていく「野面積」(のづらづみ)という技法が使われている石垣を持つ城です。
秀吉の時代になると、軍事的緊張が高まり侵入を防ぐことが重要になります。秀吉は表面の見栄えも重要視ししつつも防衛に特化した「打込接」(うちこみはぎ)と言う石同士の隙間をなくす積み方を用いるようになりました。「野面積」で使用する自然石は、角が丸まっているため、積んでいくと隙間が生じる。裏側がしっかり組まれていれば表面に隙間があっても崩れませんが、隙間は敵が侵入する際の足がかりになってしまいます。そこで「間詰石」(まづめいし)と呼ばれる小石を詰めて仕上げる技法が「打込接」です。その「打込接」の技術と従来から使用されていた「野面積」の技術が融合し使用されているのが、名護屋城や勝本城となり、その築城に関する中心人物が加藤清正でした。勝本城の石垣は、加藤清正がのちに築いた「熊本城」に使われている技術と信長の築いた「安土城」に使われている技術が融合された全国的にも珍しい事例なのです。信長がうち壊そうとしても壊せなかった石垣に、天下人である秀吉の持つ技術が融合し更に進化した石垣であるからこそ、400年経った現在もその姿を残しているのには納得がいきます。  

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勝本城の鏡石

鏡石とは

勝本城の石垣の中に、ひときわ大きな石が使用されている部分があります。これは、鏡石(かがみいし)といい魔除けの意味を持っています。実は、織田信長の時代に築かれた城には使用されていません。豊臣秀吉の時代に築かれた城より見受けられるのです。
一説に秀吉はとても信心深い人物であったと言われています。巨大な自然物に対し畏敬の念があったのでしょう。それこそ、大坂城の石垣には縦10メートル横6メートルもの巨大な鏡石が使用されているほどです。名護屋城にも鏡石は使用されていますし、どの城をみても魔除けや権力の象徴として、どこか1ケ所には鏡石が使用されているようです。
しかし、勝本城には4か所に鏡石が使用されています。それはなぜなのか、はっきりとしたことはわかっていません。壱岐を要(かなめ)の地として重要視したものか、それとも4カ月という短期間で仕上げる必要があり、少しでも早く終わらせるために大きな石を多用したものか。真相は不明のままです。

城を壊していたのには理由があった

海を渡った秀吉の軍勢は、漢城(現在のソウル)を目指しながら、その途上の城を落としていきます。漢城を陥落させたのち、攻略を進めていくはずでしたが、朝鮮が頼んだ明の援軍により、膠着(こうちゃく)状態となりました。兵糧も尽きはじめ、秀吉側は朝鮮に対し和平交渉を持ち掛けましたが決裂したため、1597年(慶長2年)更なる軍勢を送り込むこととなります。(慶長の役)しかし、再び戦い始めた直後、秀吉が病死。兵は朝鮮から撤退することとなりました。
徳川家康の時代となり、朝鮮との関係改善の意思表示として秀吉が築城した肥前名護屋城や勝本城は崩され、城を取り囲む石垣も壊されます。石垣の角を崩す破却を見せる事で城がその機能をなくした事を対外的にアピールするためです。
その後、対馬藩主である宗氏の和平工作もあり、1605年(慶長10年)に朝鮮との国交が回復しました。朝鮮王朝の使節団は、勝本城を壊している事を現地で確認し、自国の王に報告をしたそうです。石垣の破却にはそれだけ特別な意味があったことがわかります。 

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平戸藩の苦悩 

秀吉の死後、豊臣方だった松浦家は関ケ原の合戦で豊臣、徳川のどちらにつくかの選択を迫られました。松浦鎮信は、豊臣方への恩がありましたが、様子を伺いつつ勝利を確信したのち、すぐに徳川方に参じました。家康から豊臣方につかなかったことを賞され63200石の旧領を安堵されたのですが、徳川家の信頼度が低い外様大名(とざまだいみょう)の扱いとなり、徳川幕府からは警戒されたままでした。鎮信の孫、隆信(たかのぶ)が家督を継ぐ際に、今でいう藩主の任命書のような書状が渡されるのですが、送られてきた書状には「豊臣隆信」と書かれており、まだ松浦家が信頼されていないことに恐怖を感じた鎮信は、1613年(慶長18年)自ら命じて、自身の城である日の岳城(ひのたけじょう)を焼き払わせました。徳川幕府に今後一切、逆らう意思がないことを示すためです。松浦家は以後100年間拠城のない大名として過ごしています。幕府からの信頼を得るためにはそれほどの決意が必要だったのでしょう。

おもしろいのは勝本城だけじゃない!名護屋城、清水山城の魅力にも触れてみよう!

文禄・慶長の役の際の拠点とするために肥前国松浦郡名護屋(現・佐賀県唐津市)に築城された城が名護屋城です。築城の達人といわれた加藤清正が中心となり全国の諸将に築かせました。松浦党の波多親(はたちかし)の家臣だった、名護屋経述(なごやつねのぶ)の居城を大改造したもので日本100名城に選定されています。
名護屋氏の名前が、秀吉の出身地である那古屋(現・名古屋)と同名、そして勝男山(かつおやま)という縁起の良い地名ということもあり、この地を選んだと言われています。また、一説には岸壁が切り立っており大きな軍船を直接着岸できた事やリアス式海岸であるため入り組んだ部分に船をとどめておくことができる事。加部島が自然の防波堤になる事。松浦党のような海に詳しい人々がいた事なども拠点となった要因ではないかと言われています。築城に際し、縄張りを黒田官兵衛、そして普請奉行を黒田長政、加藤清正、小西行長、寺沢広高らが担っています。文禄・慶長の役を見据えて、1591年(天正19年)の後半から築城が始まり、突貫工事の末、わずか数カ月で完成。天然の良港である名護屋の港を控え、当時としては大坂城に次ぐ規模の城郭を誇っていました。金箔瓦を施した豪華な五重の天守。茶室を併設した秀吉の生活空間である「山里丸」など、戦時とはいえ、秀吉が天下人たる事を世に示す構造となっていました。勝本城が長崎オールスターズの武将で築城した城と例えるならば、名護屋城は全国オールスターズで築城した城と言えるほど、名だたる武将の総動員により築城されています。
名護屋周囲に諸将が構える150ケ所の陣屋。最大時には30万人の軍勢が集結し、そしてそれらを支える人口10万人を超える城下町が築かれていました。この数は当時のロンドンを上回る人口だったと言われています。1598年(慶長3年)秀吉の死により朝鮮に遠征した大軍は退却し、名護屋城も廃城となっています。現在は往時の石垣が残るだけですが、天守跡、三の丸南東隅櫓台、井戸などの整備、VRなどを使った天守等の再現にも取り組んでおり、歴史好き、城好きにはたまらない観光スポットとなっています。
また、対馬の清水山城は対馬藩主である宗氏の居城であった金石(かねいし)城の裏山に築かれた石垣造りの山城です。名護屋城や勝本城とは打って変わって、岩盤が露出した細い尾根上を削平し、石垣による虎口などを構築した堅固な山城となっています。倉庫や宿舎ではなく、攻撃予定だった朝鮮や明国からの反撃に備えた籠城拠点とも言われています。現在、当時の建物は残っておらず石垣を残すのみとなっておりますが、秀吉軍の退却後、すぐに廃城となっているのでその当時とさして変わらない様子を見ることができるのが魅力の一つです。地元のガイドグループによる有償ガイドも好評ですので、肥前名護屋城~壱岐勝本城~対馬清水山城を巡り、日本と朝鮮そしてその争いに巻き込まれた各地の人々にとって悲しい歴史となってしまった、文禄・慶長の役という出来事を改めて知ることも必要なのかもしれません。

最新の発掘調査結果から分かってきた、勝本城跡の別の顔。

令和2年度の発掘調査で城山の山頂部の確認調査が実施されました。勝本城の時代を証明するお宝は発見されませんでしたが、江戸時代のものである瓦が発掘されました。これは、勝本城が破城されたあとにも、なんらかの建物が建っていたことの証明となります。
城山は、勝本浦の漁業者にとって、海で自分の位置を割り出すための「山アテ」とされてきた歴史があるようです。この「山アテ」は無事に港に帰ることができるシンボルとして崇められ、信仰の対象として祀られることが多いようです。壱岐の民族事例として、自分の船に女衆を乗せない風習があったとされ、女衆は海に出た男衆が海から無事に帰ってくることを願うため、「山アテ」のシンボルとなっている山に登り、山頂で祈りを捧げる風習があったとされます。現在でも山頂にある稲荷神社には数多くの方が訪れています。江戸時代においても同様の風習があった可能性が高く、山頂に信仰の対象となる何らかの拠点があり、建物が建てられていたとしても不思議ではありません。城としての機能は破城後閉ざされていますが、城山は市民の憩いの場としてだけでなく、市民の信仰の場として使われ続けていた歴史を最新の発掘調査で垣間見ることができたようです。
また、勝本城は文禄・慶長の役の際にのみ使われた、という事実が顕著な城です。それは信長の居城安土城と同様で、発掘されたものの時代が特定できる貴重な城です。このような城は全国的にも珍しく今後発見されるものによっては、歴史上なぞである部分が明らかになる可能性もあります。今後の発掘調査で金箔瓦がでてくるようなことがあれば、豊臣秀吉がいかに勝本城を重要な城と位置づけていたか、という事実が明らかになり、より一層注目されることでしょう。今後の新たな発見に期待が膨らみます。

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壱岐市教育委員会文化財課係長の松見氏

色々な名称があるのはなぜ?

現在、勝本城が正式名称となっていますが、色々な文献に風本城(かざもとじょう)、武末城(たけすえじょう)、雨瀬包城(あませかねじょう)という別名も併せて記載されているものを見かけます。なぜ、同じ城なのに別名があるのでしょうか?壱岐市教育委員会社会教育課文化財班係長の松見氏にインタビューをしてみました。
「高城」なぜ、いくつもの名称があるのですか?
「松見」いくつもの名称があるのは、時代によって様々な名称で呼ばれていたからです。名称が変わる主な理由としては、ゲン担ぎをしているのだと思われます。元々は風元(風が吹く源の地)であった土地の名を勝元(勝利の源の地)へと変えたのでしょう。その後、慶長の役も終わりを迎え、城としての機能が無くなろうとしていた頃には、武士の最期の地を意味する武末城となり、その後壱岐名勝図誌が作られる江戸時代末期まで200年間その名称が語り継がれているようです。
「高城」つまり、文禄・慶長の役の7年間に異なる名称が使用されたということになるのですか?
「松見」そういう事になりますね。
「高城」雨瀬包城という名称はいつの時代に使われていたものですか?
「松見」雨瀬包城という名称は中世の名称だと思われます。14世紀の志佐(しさ)・佐志(さし)・鴨打(かもち)・呼子(よぶこ)・塩津留(しおつる)の五氏による統治時代に各地に城が築かれました。恐らく、城山の地に築かれた城が雨瀬包城という名称だったのでしょう。秀吉が風本城と命名する以前までその名称で認識されていたと思われます。
「高城」その土地の名前をもととし、ゲンを担いで、なにか悪いことがあれば変えて縁起のよい名前にする。ということの繰り返しで現在の勝本城という名称が正式名称となっているという事なんですね!
「松見」そうですね。それが同じ城にいくつもの名称が存在する理由です。
以前より、気になっていた謎が明らかになると同時に、秀吉がいかに勝利を意識していたかという事を知る事ができました。

参考文献:壱岐名勝図誌
     勝本町史
     壱岐の風土と歴史 中上史行著

記事監修:壱岐市教育委員会社会教育課文化財班 松見裕二
     郷土史家 松崎 靖男

写真提供:佐賀県立名護屋城博物館
     対馬市観光物産協会

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